エッセイ

月報「あしょろ」から、エッセイを転載しています。

2008年8月号
「永遠の都」

T.S.

この地上には、永遠の都はない、きたらんとする都こそ、私たちのもとめているものである。(ヘブル人13:14)

このみ言葉は、地上の生活には限りがあり、人生の最終目的地としてめざすところとは、主のみもとへゆくことであり、そこへ導かれることこそが最高の幸せであり、祝福であると教えております。死の門を通過する時、人生最高の祝福の始まりとなるのです。ここで「祝福」という言葉をどのように理解されておられるでしょうか。

聖書で言われている「祝福」という言葉の表現や理解をただ単に「よい日を」という挨拶程度の弱い曖昧な理解で止めてはなりません。聖書でいわれている「祝福」とは、超自然的、神にしか出来ない最高の無制限の偉大なよき恵のことなのです。この偉大な祝福の人生の始まり!!それが神に召されるということです。

ここで少し仏教における追善供養とは、どのようなものであったかを考えて見ましょう。日頃から故人を追悼するために、忌日(きにち)や命日といって亡くなった日をしのんで法事を営みます。これはすべてお釈迦様の教えにかなったもので、自己反省し、故人やご先祖に感謝する日でもあります。もともとインドで起こったもので、亡くなった日から四十九日まで一週間ごとに七回の供養を行ってきました。やがて中国に仏教が伝わってから土着の先祖崇拝思想とむすびつき百日忌、一周忌、三回忌、が加わり、さらにわが国で七回忌、十三回忌、十七回忌、三十三回忌、三十七回忌、五十回忌などを加え今日のような年回忌のしきたりとなりました。そのほかに百回忌をおこなうところもあります。こうした追善供養は、「ご先祖」という言葉を深く考えてみたとき単に生前の記憶がある肉親だけではなく、ほとんど話題にものぼらない、遠い遠い「いのち」の流れをしみじみと感ずるだけです。このような遥かな「ご先祖」によって私たちの「いのち」は受け継がれてきたと考えられています。これが、自らの修養となるというのです。

キリスト教に於ける召天者(追悼者)記念礼拝は、仏教の追善供養の意味と異なります。ここに二つのことに意味をもって記念会を持ちます。

  1. 故人の信仰への証しと在りし日の徳(ああ〜この人はこんな素晴らしいひとだったなあ〜と覚えること)を追憶し、思い出を互いに語り合うことによって、故人と私たちとの深い係わり合いの中で現在、今日の私たちの生活を意味あるものとするためであります。
  2. 神の恵みに感謝し、祝福を祈ることによってご遺族を慰め、互いに励ましつつ信仰に進み、故人を通して与えられているこの交わりを大切にして過ごすためであります。

ヨハネ14:1〜6に、あなたがたは、心を騒がせないがよい。〜あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。〜あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。〜

イエスは、昇天されるまえに私たちの行くべき最後の永遠の住まいを用意しておくと言われた。人生とは、永遠から永遠への時の流れで、点のような一時(ひととき)であります。人生とは一瞬の内に過ぎ去ってゆくのです!

今日までの過ぎ去った人生を思い返してみますと、わたしたち人間は、一生かかって立派な家を建てあげることや財産を築き上げることに努力し、夢をみますが、イエスさまの目から見ると、我々人間がこの世に生を受けてから肉体が滅びるまでのことを、このように言っていると思います。肉体は、ちょうど一時の借家のようなものであり、この肉体という天幕に自分を宿しているにすぎないと言っておられます。

詩篇90篇1〜12に神の人モーセの祈りがあります。

〜山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、〜あなたは人をちりに帰らせて言われます、『人の子よ、帰れ』と。あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。〜あしたにもえでる青草のようです。あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。〜われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。〜われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。

「人の子よ、帰れ」と主はいわれる。主なる神は、われわれがご自分のもとに帰るように言われている。待っておられるのです。ある方が、このように祈られました。「いつでもどこでも旅の宿、天のふるさとへ帰るまで」。つまり神のもとに帰るのがみこころであり自然なことなのです。「その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。」と祈っている。つまり、一日一日を神と共に大切に過ごし、やがてふるさとへ帰るという信仰が、知恵の心を得る事なのでしょう。

今日の我々も数々の人生の体験を経て、やがてこの一時の幕屋を出て永遠の住まいへと移されるのです。主なる神は、そこには、住まいがたくさん用意されていると言っておられます。この世において生きている時だけが人生のすべてであると考える人と、亡くなった後も霊も魂も生き続けると考える人ととの間には、生き方、死生観などの面で大きな違いがあります。それは、「死は終わりでなく出発である」との聖書的信仰に立っているからなのです。

わたしたちにとって肉親との別れは実につらくて悲しいものであります。聖書は、泣く者と共に泣きなさい。(ローマ12:15)とあるように、この死に直面した御遺族と共に互いに慰め合うこと、分かち合うことも大切なことであると言っています。またヨブ記1:21で主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかなとあるように、

この世で母の胎内で生を受けるのも、またやがてこの命が絶えはてるのも主が与え、主が取られるのです。それはわたしたちに人間にとっては、どうにもならないことなのです。生も死もすべて主の御手のなかに、ゆだねてゆくことであります。

また、伝道者の書12:7でちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。とありますが、つまり土から造られた肉体は、土に帰り命の息として吹きいれられた霊は、神のもとへ返されるのです。死という門をくぐり貫け神のもとに召されるいうことなのです。

最後に伝道者の書7:2のみ言葉を分かち合いたいと思います。

「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者が それを心に留めるようになるからだ。」

死は、我々の人生に対する神と人との関係、人と人との関係、いわゆる生まれて死ぬという!死生観を深く覚える良き時として大切なものです。生きる意味、尊さを大事にしてゆくこと。死は人生の終わりではありません。 この肉体は、やがてすぐに朽ち果て滅びますが、この肉体を脱ぎ捨てて永遠の命、永遠の幕屋が、既に用意されているのです。死は、終わりでなく始まりなのです。

(引用聖句は 聖書©日本聖書協会 
及び、新改訳聖書©新改訳聖書刊行会より)




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