月報「あしょろ」から、エッセイを転載しています。
H.T.
10年以上前、「依頼人」というアメリカの娯楽映画を見ました。原作は「ペリカン文書」「法律事務所」などの法律の世界を扱った作品が多いジョン・グリシャムという作家です。「依頼人」という映画もやはり弁護士が出てくる、ストーリーとしてもなかなか面白い映画でした。あらすじは次のようなものです。ある少年が上院議員殺人事件に巻き込まれて重大な秘密を知ってしまいます。裁判で証言して秘密を公表すれば家族もろともマフィアから命を狙われる身の上になってしまいます。証言を拒めば罪に問われてしまうという、非常に困った状況に陥ります。その少年が、真実を言うべきか、言わざるべきか、留置場で悩む場面があります。その留置場の壁に落書きのようなものがあり、少年がそれをじっと読んでいます。それが今日の聖書の箇所です。真理はあなたたちを自由にする
、この言葉がたまたま書かれていて、それを少年が見ているという場面でした。字幕にはそれが聖書からの引用であることが分かるように工夫されていたような気がします。アメリカはキリスト教信仰の影響を強く受けていて、その言語である英語の慣用句も聖書に由来するものが多く、また日常会話のなかでも聖書からの引用があるようです。余談ですが、戸田奈津子という字幕翻訳者が以前トーク番組に出演するのを見たことがあります。映画で翻訳をして字幕を作るという仕事に欠かせないという一冊の辞書を持ってきました。それは英語の辞書ではなく、コンパクトな聖書辞典でした。
さて、真理はあなたたちを自由にする
という聖書の言葉ですが、ここでいう真理とは何でしょうか。客観的な事実のことでしょうか。裁判などで取り上げられる事件で、誰が真犯人なのか、そういう真理でしょうか。あるいは科学的な真理のことでしょうか。水は摂氏零度で個体となり摂氏百度で気体となる、地球は丸く、太陽の周りをまわっている、そういった真理のことでしょうか。もちろん、それらも真理であることには間違いはありません。真理が明らかにされて、それによって十数年ぶりに刑務所から出て自由を得ることができた人が最近いました。また科学的な真理に基づいた技術や医学の発展によって、人類は繁栄や健康を得てきました。国立国会図書館のカウンターには「真理はわたしたちを自由にする」と古典ギリシア語で書かれているそうです。知識の源である図書館に、そうした言葉が刻まれているとは何とも意義深いことです。しかし、聖書のこの箇所で言われている真理は実に信仰的な事柄です。
わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする
(ヨハネ8:31-32)
これはイエスがユダヤ人たちに語った言葉です。言葉にとどまる
という言い方は日本語にはあまりないものです。「とどまる」とはある場所に滞在する、動かないで止まっているという意味です。イエスの言葉にとどまるとは、いろいろなものに惑わされることなく動かずにその言葉につながる、つまりイエスの言葉を信じるという意味だと思います。弟子であるということは、イエスと非常に近い関係にあるということでしょう。「真理を知る」とはどういうことでしょう。聖書にはわたし(神)は道であり、真理である
(ヨハネ14:6)と書かれています。つまり真理を知るとは、真理である神を知るということであり、そのことを通して自由になるということをイエスはユダヤ人たちに伝えているのでしょう。するとユダヤ人たちは「いまさら自由になるなどとは心外だ。私たちはすでに自由な身分だ。奴隷などではない」と反論します。するとイエスは罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である
と言います。つまり社会的身分が自由であるか不自由かを問題にしているのではなく、その人の生き方、魂の在り方について、それをイエスは問題にしています。真の自由とは神を信じる生き方であるということをイエスは言っています。
信仰を持たない人にとって、神を信じることで自由が得られるということは容易に納得できることではないでしょう。私自身信仰を持つ前は、宗教をもつということは自主性が無くて自由を失うことだと思っていました。しかしある時から絶対者である神という存在と、その神の赦し無しには自分は生きてはいけないと考えるようになりました。自分がなんと自己中心的で、人を傷つけてばかりいるのだろうと思うようになったからです。
聖書では、自分が正しいと主張すること、自分の義を主張すること、自己中心が罪であると言っています。そして聖書が説いているのは、自己中心ではなく、神を中心とした生き方です。神は私たちに何を求めているのでしょう。神は「自分を愛するように隣人を愛せよ」という掟を私たちに与えています。「真理はあなたたちを自由にする」とはどういうことでしょうか。それは自己本位の生き方を捨てて、神を愛し信じることによって真の自由が得られるということだと思います。そして神を信じるということは当然、その神が私たちに与えて下さった掟を守るという行為が伴わなければなりません。掟を守らないと自由になれないとは、なんとも不自由なことで、相矛盾するようにも思えます。しかし、本当に愛し信頼する人と交わした約束を守るということは決して不自由とも束縛とも感じません。「隣人を愛する」というのは実に困難なことです。私が神の愛を本当に感じて信頼すれば、神から与えられた掟を守ることに不自由や束縛は感じないでしょう。不自由を感じるということは、やはり自己中心的な生き方をしている証拠なのでしょう。日々、自分自身を神に明け渡して生きていきたいものです。
(2010年1月24日礼拝メッセージより)
(引用聖句は聖書 新共同訳©日本聖書協会より)
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